Liquid Style - like a river flows ♥

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ほかの光学機器にはないライフルスコープの特殊性が、弾丸を発射した時の強烈な衝撃だ。
「発射時の瞬間的な加速度は重力の千倍、1000Gにもなります。この衝撃で正立レンズが0.01ミリずれれば射手は像が見えなくなります。何千回、何万回と撃っても照準がずれてはいけないのです」
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日本でも1990年代の前半頃までは普通に「パンティー」と呼称されていたが、下着業界が販売戦略のため「ショーツ」という言葉を普及させ、近年は特に若年層の女性の会話などにおいては「ショーツ」または「パンツ」という呼称が一般的になっている。しかしそれは日本だけの話で、英語会話では現在でも「パンティー」が一般的である。
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他人に自分の目標を公言するよりも、黙っているほうが目標達成につながりやすいというのは、すでに1920年代から、心理学者の研究によって明らかになっているとか。その理由として、他人に話してしまうとそれだけで「やった気」になってしまい、その満足感ゆえ、実際に目標を達成しようというモチベーションが上がりづらくなってしまう、という点が指摘されています。

「・・・」

Sivers氏曰く、自分の掲げる目標そのものを他人と共有するよりはむしろ、目標達成するために日々やるべきことを、共有するほうが望ましいとか。たとえば、「マラソン完走するんだ!」と言うよりも「週5でジョギングしなきゃいけないんだよね」と話すほうが、目標達成のためのモチベーション維持には効果的だそうです。

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7th
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Mar
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アンドリース・トリューニヒト(Andries Treurnicht、1921年2月19日-1993年4月22日)は、南アフリカ共和国の政治家。アフリカーナー。アパルトヘイトの維持と強化を唱え、保守党を結党して白人右派のリーダーとなった。
トリューニヒトは1921年2月19日、南アフリカ・ケープ州(現在の西ケープ州)のピケットバーグにて生まれた。ステレンボッシュ大学に進学し神学を学んだ後、ケープタウン大学において政治哲学の博士号を取った。その後オランダ改革派教会の聖職者となり、14年間務めた。
1971年の国会選挙で、トリューニヒトはトランスヴァール州のウォーターバーグから国民党 (南アフリカ)の候補として立候補し当選。国会議員となった。1976年には文部副大臣となり、すべての学生がアフリカーンス語を学ぶよう決定し、ソウェト蜂起の引き金を引いた。1978年にはトランスヴァール州の国民党代表となり、1979年には中央政府の大臣に就任した。
1982年3月20日、ピーター・ウィレム・ボータ政権のアパルトヘイト緩和策に反対して国民党を離党し、保守党を結党した。保守党はアパルトヘイトがもっとも厳格だったヘンドリック・フルウールト政権時の政策に戻る事を基本政策とし、主に白人右派から強い支持を得た。1987年の選挙では、世界の反アパルトヘイトの潮流に反発した白人有権者たちが保守党を支持し、26%の得票で23議席を得て、反アパルトヘイト政党である進歩連邦党を押さえて野党第1党に躍進した[1]。
フレデリック・デクラーク政権下となり、アパルトヘイト廃止の流れが進みだした1992年、トリューニヒトは白人を対象とした、アパルトヘイトに対する国民投票において改革を主導するデクラークと対決し、アパルトヘイトの維持を訴えたが、投票結果は68.7%が改革支持であり.[2]、トリューニヒトは敗れ去った。彼はその後も民主化プロセスに異議を唱え続け、保守党の非人種選挙への不参加を宣言した。
トリューニヒトは1993年4月22日、ケープタウンにて死去した。
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ヒポクラテスの誓い


医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う、私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。
◯この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。
◯そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
◯私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。
◯頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。
◯同様に婦人を流産に導く道具を与えない。

(編注・婦人の流産についての部分は現代では省略される)
◯純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。
◯結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。(編注・この外科手術に関する部分は現代では省略される)
◯いかなる患家を訪れるときもそれはただ病者を利益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷のちがいを考慮しない。
◯医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。
◯この誓いを守りつづける限り、私はいつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。

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映画『トロン』に登場する『ライトサイクル』(光電子バイク)を再現し、160kmで走行可能という電動バイク『Xenon』が販売されている。

Image courtesy Evolve Motorcycles


米Evolve Motorcycles社は2月22日(米国時間)、ロサンジェルスで開催されたアカデミー賞前夜祭パーティで、[映画『トロン』に出て来る『ライトサイクル』(光電子バイク)を再現した]電動バイク『Xenon』をオークション出品した。その売り上げは環境保護団体Global Green USAに入ることになっている。

有名なナイトクラブ『Avalon Hollywood』で開かれたこのイベントには、ペネロペ・クルス、エイドリアン・グレニアー、オーランド・ブルームといった著名人が多数参加していた。

筆者は普段はこうしたセレブたちが集まるイベントには関心はないが、今回は、ペネロペ・クルスの前を素通りしてXenonに駆け寄り、そのハンドルに手をかけて挨拶したい気持ちに駆られた。この美しい電動バイクが初披露されたのは、2011年秋の『ミラノ国際モーターサイクルショー』でのことだった。[フレームを作成したParker Brothers Choppers社は、2010年12月に、スズキ『TLR1000』のVツイン・エンジンを使ったライトサイクルを限定販売(日本語版記事)している]

Xenonの最高時速はおよそ160kmだ。基本モデルと、バッテリーのパワーが2倍で約160kmもの距離を走れる『XR』モデルという、ふたつのバージョンがある。

もちろん100%電気で走行するし、いちばん素晴らしいのは実際に光ることだ。Xenonには、32インチのハブレス・ホイールがついていて、有機エレクトロルミネッセンス(OLED)のテープライトがそれを飾っている。

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本日はうるう年(Leap year/うるうどし)であり2月は29日まで存在する。なぜそんなことが必要なのか? それは1年が365日ではなく、1日も正確には24時間ではないからだ。1年は365.242199日となっており、その調節をするために4年に1回、うるう年を設けている。ちなみに今年はうるう秒もあり、6月末に1秒差し込まれる予定となっている。あくまで1日24時間、1年365日というのは人間が決めたことであり、実際は自転と公転は多少ずれてくるため、こうした調節が必要なようだ。

と、まあ簡単に説明したが本当はもっと複雑なのであとは各自調べておいて欲しい。そんなうるう年だが、幼い頃からありがちだったのが、うるう年の2月29日に生まれた子が「おまえいったい何歳なの?」「4分の1の年齢でうらやましいな」「4年に一回しか歳とらなくていいね(笑)」という例のセリフである。

さて、そんなセリフを言われても論破する方法を伝授しよう。実は日本の法律では、生まれた日の前の日の歳をとるようになっている。つまり2月29日生まれの人は2月28日に歳をとるというわけだ。それは「年齢計算ニ関スル法律」により民法143条を適用するように記されており、そこには次のように書かれている。

一.週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。
二.週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。

要約すると、誕生日の前日、24時に年齢が加算される。先ほども書いたとおり、うるう年の人は2月28日が前日なのでその日に必ず年齢が加算される。では3月1日生まれの人はどうなるのか? この場合はうるう年の場合は2月29日の24時に歳が加算され、平年の場合は2月28日に歳が加算されることになる。

こういった法律は定められているため、今後うるう年生まれの人が「4年に一回しか歳とらなくていいねー(笑)」と冷やかされても、「年齢計算ニ関スル法律」を出して論破できるだろう。ちなみに4月1日生まれの子は3月31日生まれまでの子どもと同じ扱いになる。

そういえば記者の友達がうるう(閏)年生まれで「閏一(じゅんいち)」って言う名前だったなあ……。

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李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすために激しい反日教育を行い、それが現在でも韓国社会に影響を与えている。
1954年のサッカーワールドカップアジア予選では、「植民地支配した日本人を領土に入れるわけにはいかない」として敵地日本で2試合戦うことを条件にサッカー韓国代表の参加を許した。当時の代表監督に「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と言ったというエピソードがある[23]。出場を決めた際には歓迎式と祝賀パレードが行われた[24]。
李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月 - 1956年1月、1959年6月 - 1960年4月に日本と通商断交している。また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。
後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている[25]。
李承晩政権は、おおむね旧植民地官僚であったエリート(現在では親日派とされる)により構成されていて、政治と癒着していた企業も、現在では親日派とされることが多い。今日の韓国の教科書では「李承晩政権は反共に徹するあまり、親日派の処分が不十分であった」といった趣旨の記述があり(金大中も自著の中で同じ内容の批判を述べている)、親日派の糾明は現代の韓国で主要な政治議題となっている(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法を参照)。
日本に併合される前の李朝朝鮮がまるで「東洋の理想国家」であったかのように、アメリカで宣伝。ハースト系新聞が広めた日本=野蛮国論の一部となり、アメリカが極東に政治介入する政策の根拠となった。韓国内の朝鮮史賛美は、李承晩の捏造から来ている。韓民国成立直後は、日帝時代を具体的に知っている韓国国民が大多数だったが、公の場で「日帝時代はよかった」「今の政府は駄目だ」等の批判をした者をすべて政治犯として、投獄・拷問・処刑を行った。 大韓民国成立後のたった2年で政治犯として、投獄された者の総数は日帝時代の約30年間の投獄者数を超えた。今の韓国でも、親日論者として断罪される事が社会的に抹殺されるに等しいのはそのためである。
北朝鮮の侵攻を受けた韓国が混乱し、半島南端の釜山にまで追いつめられるほどの醜態をさらしたのは、李承晩個人の資質によるところが大きい。負け戦の時は誰よりも早く逃げ出し、勝ち戦の時は誰よりも目立とうとして、先頭に立った。首都ソウルが北朝鮮に侵攻されつつあるときは、避難民で大混乱状態の漢江の橋をかまわず爆破させ、一方で自分は安全な場所に急ぐために米軍基地に逃げ込んでいた。仁川上陸作戦で北朝鮮軍の掃討が成功しつつあるときは、連軍としての規律を無視して、韓国軍部隊を勝手にソウルに先行させた。韓国から北朝鮮への逆進攻が敢行されたのも、マッカーサー司令官の意図というよりは、李承晩の独断専行が大きい。
在任期間中に行われた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島の編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。権威主義政権として基盤の脆弱な李承晩が、このような自己正当化の論理に頼った面も強い。また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものを抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。今日でも、これらの政策による弊害が大きく、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。
代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。豊富な水産資源の漁場の確保と韓国が自国領と主張する竹島(韓国名:獨島)を取り込むために一方的にとられた措置であった。李承晩ラインを越えて操業している日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり、韓国官憲による銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出している。李承晩ラインの設定は国連海洋法条約制定前であり、排他的経済水域が成立する以前である。またサンフランシスコ条約では竹島への直接言及は無いが、その交渉文書であるラスク書簡においては、竹島は日本領であることが謳われている。李承晩ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。
領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責を受けるほど、日本を占領したいと発言していた。
また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあって、今日では次第に改善されてきている。
李承晩は在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業を阻止するため工作員66人からなる工作隊を組織し、帰国事業を主導していた日本赤十字社の建物を破壊すること、帰国事業を担当していた日本側要員を暗殺すること、帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道線路を破壊することなどを命じ日本に密航させた[26]。
Feb
28th
Tue
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フェンスを外す人

イギリスのチェスタートンという批評家の名言に好きな言葉がある。
「なぜフェンスが建てられたのかわかるまで、決してフェンスをとりはずしてはならない 」

高級なクラブなどに行くと気づくのは、そこにある灰皿が極端に小さいことだ。小さく造形された灰皿はそれだけで独特な美しさを持っているが、ここには原作者の粋なアイデアが詰まっている。小さな灰皿は、一本でもたばこを吸えばいっぱいになってしまう。そうすると、スタッフが灰皿を新しいものに替える。そうするとことで、客への細やかなサービスを演出できるし、スタッフに自然と客へ細かく注目させることを可能にしている。

もちろん、これを違うやり方で実現することもできる。たとえばマネージャーが、スタッフに「客を細かく見ろ。灰皿は、客が一本たばこを吸ったら必ず変えろ」と言えばいい。そういうマニュアルを作ってもいいし、バックルームに貼り紙をしてもいい。なんらかの指示や号令を書いた張り紙は、オフィスなどでもよく見られるものだ。でも、これは無粋なのだ。指示を掲出すれば、指示を出せば、理解して実行されると思っているのだ。それは緊急時には実行されないし、世代をまたぐと継承されないし、新人には毎回指導しなければいけないということが理解できていない。

無粋な人は、フェンスがなぜ建てられたかを考えない。

高級クラブのマネージャーが無粋な人であったなら、客の灰皿がいっぱいになっているのを見て、「もっと灰皿を大きくしなければならない」と思うだろう。彼は、なぜ灰皿が小さくされているのか気づくことがない。人が造形したあらゆるものは、何らかの理由があってそうなっている。チェスタートンが言うように、「誰かが何かの理由で、誰かの為に良かれと思って立てた」のだ。フェンスは勝手に生えたりしない。

無粋な人は、すぐ言葉に頼る。灰皿を替えさせたいなら、そう言えば、そう書いておけば皆がそうすると思っている。しかし本当に効果のある、粋なアイデアというのは、環境に埋め込まれたときに発揮される。そう指示されていると気づかないうちに指示に従っている、そういうものだ。高速道路の駐車場が斜め向きなのは逆走を防ぐからということらしいが、こういうものこそ「粋なアイデア」だと思う。無粋な人は、進行方向を書けばいいと思ってしまうし、クルマを沢山詰め込めるとかいう理由で、ひょっとしたら斜め向きをやめてしまうかもしれない。

アイデアは民主的なものだから、誰が出したっていい。でも、既存のアイデアを廃止するなら、無粋な人にならないように注意しなければいけない。無粋な人は無粋な人なりに、フェンスがなぜ建てられたのかということを考えるべきだ。

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■王様に服を着せるには
批評・評論は信頼のゲームである。信頼を得ている者の発言は効率的に大きな波及効果をもたらすことができる。信頼の獲得は一朝一夕にはできない。理解されやすく、かつ、少しだけ新しい知見を含めた「小さな主張」で、最初の信頼者を得る。聴衆の理解を汲み取りつつ、徐々に新たな知見を加え、信頼を維持しながら核心に近づく。一足飛びに大胆な発言は禁物だ。蓄積してきた信頼を失うことは避けられない。信頼を失えば、耳を傾ける者は去り、発言の効力は失われる。しかし、一般に、大胆な発言が求められる事態こそが重大な局面である。着実に理解と信頼を得られる「小さな主張」は所詮、小さなことでしかない。そもそも何のために信頼を獲得するのか。重大な局面の到来に備え、最後の爆弾に最大限の効力を充填するためではないのか。しかし、砕け散ったそのとき、もはや次の手段は何も残されていないかもしれない。
別の手段もある。第二の手段は、内部に入って内部から気づかせる方法だ。この方法は、内部の者から既にある程度の信頼を得ている状況でしか成功を期待できない場合が多い。内部が理性的な議論のできる正常な土壌でなくてはならない。内部からの解決を図り、失敗した場合には、後から第一の手段を使用しても効力は小さい。内部から解決しようとして失敗した人が言うことだからとバイアスがかかった見方が避けられない。解決できる見通しがなければこの手段は使えない。
第三の手段は、外部のおおやけな場で互いに討論して見せることである。この手段が使えるのは、対抗側がある程度組織化されているときだ。個人が組織と討論する場が注目を集める形で実現されることは普通ない。組織的に対抗する場合、バイアスがかって見られる危険がある。おおやけな場で、聴衆のほとんどが納得する議論が組織的にできる場合にしか有効でない。組織の一部の者が、誤った主張、過剰な主張、非理性的な発言をすれば、全体が信頼されないで終わる。
第四の手段は、外部のクローズドな権威あるコミュニティで両者が議論することである。この手段は、既にそうした議論が可能なコミュニティが存在していて、コミュニティ内での信頼を既に得ている場合にしか使えない。この手段を使う場合は、他の手段と同時に使うことはできない。この手段が失敗した場合、後に第一の手段を使うことはできる。コミュニティ内で得てきた信頼を失うリスクを伴うという点は第一の手段と同じである。
第五の手段は、個人的に直接話をすることである。この方法が使えるのは、相手に既に自分のことがそれなりに知られている場合だけである。うまくいった場合には、後に加えて第四の手段や第二の手段を併用することで効果を高められるかもしれない。うまくいかなかった場合でも、第四、第二の手段を使用できる余地が残る。
一方、説得される側の立場からすれば、どの手段を使われるのがソフトランディングとなるか、よく考えて対応することが威信を保つ秘訣となる。
Feb
27th
Mon
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